涙の王将 あらすじ 土田杳乎
時は昭和14年 日中戦争のさ中であった
堺 舳松(へのまつ)村の とある家の軒下に
一人の老紳士が佇(たたず)んでいた
71歳になった 坂田三吉の姿であった
通りかかった幼なじみとの再会にも 心ここにあらず
坂田は迷いに迷っていた
神田辰之助 花田長太郎 金子金次郎等
今を盛りの棋士を相手に
この名人戦の後半で巻き返し勝ち進むためには
明日に控えた 花田八段との対局に是が
非でも勝たなければならなかったしかし
体力の差や慣れない時間制限に悩まされ続けていた
「誰か強い人に付き添っていてほしい……」
その思いが坂田をふる里へかりたてた
そして部落解放同盟の若き闘士
泉野利喜蔵のもとを訪れたのであった
利喜蔵宅へ向う坂田の足は重く往年の覇気はみられなかった
字も書けぬ 数もわからぬ 貧乏ゆえに学校へも行けなかった…
しょぼしょぼと老いた坂田の頬に涙がつたわって行った
足元の今池に まいまいつぶろが輪を描いていた
父の顔 母の顔 妹達の顔が浮かんでは消えた
翌日……ふる里からの無言の激励をうけて
坂田は 不屈の闘魂と驚くべき精神力で
貴重な一勝をあげたのであった
新作河内音頭が描いた天才棋士・坂田三吉と部落差別 藤田 正 評論家
■もう一人の「坂田三吉」、もう-つの「王将」
坂田三吉といえば、辰巳柳太郎の主演作品をはじめとした一連の「王将」が、あまりに有名である。大阪は通天閣下の貧しい長屋暮らしから、日本で一、二を争う棋士へと登りつめた男。無学で字もろくに読めず書けず、妻も子もほったらかし、すべてを将棋に捧げた男、坂田三吉。そして、そのド根性人生。
将棋の歴史にくわしい人や被差別部落史をひもといた人を別にすれば、彼にまつわる一般的なイメージとは、おおよそこのようなものだろう。
かくいうぼくも、かつて映画やテレビで「こはるう~!」と電話にかじりつき、絶叫するあの「王将」のラスト・シーンに、涙を流した小さなころの記憶がある。勝負に託された関西と関東の激烈な対抗意識その関西側の熱い思いに乗ったのが坂田三吉であった。破天荒な戦略と、有名人になつたあとも消えることのなかったビンボー人丸出しの性格。棋士としての栄光と、妻・小春の死。
そういった、お見事としか言いようのない仕掛けの多重構造が、彼の名を不滅のものとし、同時に「王将イコール坂田三吉」とのイメージが定着したのだった。
しかし、どうもそのイメージ、実際とはずいぶん異なるようなのである。
この六月のことである。大阪の難波で「涙の王将」と題された新作河内音頭のお披露目公演があった。
演ずるは五月家一若脚本(作詞)は土田杳乎、一若は現在の河内音頭の最先端を走る一人。土田は「大和川哀歌」「サチコ」などの創作によって、音頭界に新風を吹き込んだ劇作家である。
「涙の王将」は、かつての新国劇や数々の映画、あ るいは村田英雄の歌によって知られた三吉像とは、まったく別の視点から仕上げられていた。
たとえば、「涙の王将」に登場する坂田三吉は礼儀正しく、服装といえば、対局日でもないのに黒羽二重をまとった正装である。彼は変貌する。現代将棋に 戸惑い、ある思いを秘め故郷に帰る。しかも彼の故 郷は、堺・舳松村。老齢をむかえた名人は、ここ舳松で最後の気力を奮い立たせるのである。一人の旧 友がこの時、三吉に次のような言葉を贈る。
「生まれ在所を負い目と思たらあかんのや。あんまりつろうて、親を恨み世間を恨み、ええい!どないでもなれ!と思うことはあっても、我が心にうち勝って、それをてこにして、強うならなあかんのや。俺かて今は部落のためにがんばって中ついる。おまもちっちゃい奴らの為にがんばったつてくれ!た のむ!」
■ぞうりの鼻緒じゃ、わからへん
さかた・さんきち(戸籍では阪田三吉戯曲などでは「坂田三吉の表記」)。」
天才棋士とうたわれ、明治期から昭和初期にかけて大きな足跡を遺したこの人物の生まれは、かつて舳松村の中にあって南方と呼ばれた被差別部落である。生い立ちは貧しく、 家族を養うために十代から賭け将棋を始めた。そしてその勝ちっぷりが世間の聞こえる ところとなり、ついには、永遠のライバル・関根金次郎(のちの十三世名人)と出会うこととなる。
関根を代表とする関東勢に、関西の阪田三吉。この対決の図式が、彼を名人の座につかせた。だが東京将棋連盟は「暴挙」と抗議。はたして、日本一の将棋指しであるとの風評とは反対に、阪田三吉は長く中央の対局から遠ざからざるをえなくなった・‥…。
「涙の王将」は、このような実際の阪田三吉の歴史にひそむ苦悩をすくい上げ、苦境に立たされた勝負師の心の揺れをじっくりと描いてみせるのである。
五月家一若は言う。
ぼくはこの『涙の王将』の前に、土田先生の原作で広島の原爆をテーーマにした『サチコ』という河内音頭を歌ってます。というのも、浪曲やったら『召集令』とか戦争ものはありますけど、河内音頭にはない。河内音頭はもともと盆踊り唄です。盆踊りというのは、盆に戻ってくる祖先の精霊を迎え、送るためのもの、供養するためのものでした。先の戦争では、とくに原爆ではたくさんの方々が亡くなっているのに、仏を供養する盆踊り唄にないのはおかしいということで始まりました。そんな話をしていたら、土田先生には長いあいだ温めてたもんがあると。それが『サチコ』でした。
実は、今回の『涙の王将』もそうでした。阪田三吉を取り上げた河内音頭では、われわれの大先輩である鉄砲(光三郎)先生もやっておられます。けど、部落問題を。前面には押し出してらっしやいませんよね。関根金次郎に対して、お祝いにぞうりの鼻緒を持ってきた、というくらい。でもそれやったら、今の若い子には意味がわかりませんでしょ。ぼくも疑問があったんです。なんで部落を正面から扱わへんのやろうと。そしたら土田先生に言われたんですわ。あんたに、やってほしいんやと」
土田香乎が続ける。
「ちゃんと取材して物語を作るというのが、私の基本にあるんですね。三吉さんもそうです。北條(秀司)さんという方が書かれた時代も調べましたし、まあ、おもしろおかしくということが北條さんの頭にあったんでしょう。その面だけでわっと売れたもんやから、実際の三吉さんもこういう人やと、定着してしまったんですね。私、これはちょっと違うぞと。三吉さんは人間的に面白い人だったかもしれませんが、あんな呑んだくれでだらしない人ではなかったはずや。それでわかってきたのは、確かにお金の使い方は天才的な人にありがちな破天荒な部分はありましたし、そういう部分で貧乏されたのかもしれませんが、(名人とうたわれるようになってからは)大阪朝日新聞の嘱託として部長級の給料をもろてはるんです。その前は質屋通いもなさったらしいですけど、当時の日本の家庭では、そんなもん常識みたいなもんでしょ。ですから、これまでの物語は作り過ぎというか‥・
私は、それとは違ったところからスポットを当ててみたかったんです。やっぱり本当の阪田三吉さんは、しっかりとした方でした」
■「きたない!」あの-言が突き刺さる
時は1939(昭和14)年、阪田三吉は、第2期名人位挑戦者決定八段リーグ戦において、花田長太郎八段(当時43歳)との重大な対局を迎えようとしていた。
阪田は当年とって七十歳。しかも彼は、将棋界の組織外の人物であるとの判断により「無段」扱いでの対局であった。気力と体力の衰えに加え、勝負の世界に持ち込まれた部落差別の重み。名棋士は悩んだすえに、三十歳以上も年下である舳松出身の気鋭の活動家・泉野利喜蔵宅へ、決戦の立会人の相談をすべく足を運ぼうとしたのである。
相談を受けた泉野は、松本治一郎へ依頼状を送る。「泉野氏と同郷の棋士で坂田三吉という男が、今度、東京へ出て大事の勝負…(略)…に出場するが、東京には坂田に敵意を示すものが多く、絶えずいろんな圧迫を受けるので十分な戦いができない。ついては、だれが”強い人”に対局中、傍についていてほしいと坂田がいうから、一つ後見役を引き受けてはもらえないか」 このような書面を読んだ松本は、水谷長三郎とともに、まず主催者である将棋大成会を訪れる。 松本はそこで注文をっける。
「坂田も年寄りのことだし、一つ静かに指させてやってくれ」(以上『週刊朝日』1957年)同記事によれば、阪田はただ強いだけではなく、「大きな山のような強い人」を望んだ。その「大山」とは、すなわち「解放の父」松本治一郎と水谷長三郎(社会大衆党、衆議院議員、泉野利喜蔵と親交があった)であった。
「涙の王将」は、この松本治一郎が、東京の将棋大成会事務所につけた注文、「一つ静かに」が意味するものを振り起こし、舳松の人々が背負ってきた差別を老棋士帰郷の「ナゼ?」に重ねあわせた物語歌だといえるのかもしれない。
河内音頭「涙の王将」は、彼自身、生涯語ることのなかった、少年時代の差別体験からスタートする。このべースになったのは『さんきい物語第一部・へのまつ村の阪田三吉』部落解放同盟大阪府連堺支部、1977年)である。「さんきい」とは、当時の三吉の愛称である。
五月家一若の6月28日のステージは、この少年時代をつづった前半部がとくによかった。小さな妹・おイヨを背中にしょって出かけた家では、届け物である母の作りたてのぞうり表を、「きたない」といって洗われる。代金は放り投げられる。歌をうたいながら楽しくでかけた、さんきい少年のお使いは、ここで一転、闇へと変わってしまうのである。
『おおきに!ありがとさんだした!』
こらえにこらえた声残し、一目散に走り去る、二人が前にこんにやく橋。ぼうだと流れる涙で見えぬ。よろよろとすがる橋げた、手摺りさえ、たよりなげなる少年の、胸にぐさりと、
『きたない!』
「あの一言が、突き刺さる」
マイルドな質感をもつ一若の声も、この場面ばかりは荒れてゆく。そして荒れれば荒れるほどに、会場からは万雷の拍手がまき起こるのだった。「語弊があるかもしれませんけど、これまでの河内音頭は、やっててダルいんです。『沓掛時次郎』とか『瞼の母』とかね。現実感もないし、話にカドがない。どうもぼくは、今の世間にかかわったものやないと、物足りんのでしょうね。実際に歌ってみて、ああこれや!と実感したいんですわ。今日(初演当日)もね、ある部落のおばあちゃんが来てくれはりましたんや。おばあちゃんが言うには、私らの昔のことをそのまんまやりはって、思わず涙が出ましたと。その言葉聞いて、本当にやってよかったと思いました。そういうことなんですわ」(一若)
■北條が描いた「バカで天才の物語」
黒羽二重の羽織をまとった坂田三吉は、昔と変んばっているわらぬ触松をさまよっている。目も弱く耳も遠くそんな弱気でなった三吉。時代は彼を置き去りにしてゆく。考えに考え抜いても対局の妙案は浮かばず、名棋士は一人、孤独の涙を流す。
そんな三吉を、旧友は励ますのである。かつては泣き虫少年だった旧友・好一も、いまや三吉と同じ白髪頭。だが好一は、肩を落とす村一番の有名人に向かい、おれも解放運動でがんばっているのだ、村の希望の星であるお前が、そんな弱気でどうす ると、心優しく「叱咤」するのである。
三吉は気づく。
「忘れちゃ居ないか、三吉よ闘い続けるふる里の、あのいとおし い山や川。がんぜない子に聴かすよに、三吉心の問答は、この世に 生きて、ある限り、幾っになっても闘志を燃やせ」故郷は彼に、気 力と一筋の光明を与えるのである。
そしてその勢いをかって三吉は、舳松の雄・泉野利喜蔵との会見 に向かうのだった。
「涙の王将」は、人間という存在の弱さと、故郷(自己の出発点) を見つめることの大切さをも訴えようとしているようだ。そしてそ の背景には、「解放令」の前年(1870年)に生まれた古いタイ プの人間と、全国水平社の幹部である当時現役ばりばりの闘士が、 なぜ出会うことになったかという、史実としての「ドラマ」がある のである。
だが、北條秀司の代表的戯曲「王将」は、同じ「ドラマ」とはい っても、この点が大きく異なるのである。
負の像(「無学でバカ」)と光(将棋の天才)のギャップを徹底 させた「王将」は、北條戯曲の典型である。
そして、主人公を徹底しておとしめることにより、主人公のもう 一方の儀性を際立たせるこの事法には、実は、強烈な差別と権威肯 定構造が包み隠されているのである。ここにその新国劇用のオリジ ナル戯曲を紹介する誌面の余裕はないが、この台本を元に作られた 映画にかつて涙した自分を恥じ入るほどに、「王将」に描かれた坂 田像はやりたいほうだい、書きたいほうだいである。しかも、洗練 された棋風の関根さんこそが名人にふさわしい、私なんぞは‥‥‥ と三吉に言わせる「名場面」では、反権威の象徴であったはずの三 吉が、するりと権威を補強する存在に変わっている。これは、死が せまる老三味線弾きと天覧公演の対比を際立たせた「文楽」などと も共通する作風だ。
そして「王将」大当たりのあとに作られた「牛殺し」に至っては、食肉解体をなりわいとする主人公が、粗暴、かつ自分が貸したカネで親子心中が起きても平然としている冷血男として描かれる。「牛殺し」は、おそらくロシア文学に影響を受けているのだろうが、その差別の徹底ぶりはすさまじい。
「王将」が深刻な問題を含んでいるのは、これが実録ものとして書かれていることである。一応は史実に沿いながらも、史実とはまったく異なった方向へ線路は敷かれる。そこに笑いと涙と、「悪意のドラマ」が発生する。
生前の阪田三吉は、この北條戯曲に代表されるような、被差別部落民とは一言も書いてはいない、言ってもいない、が……といった周囲の視線を日々、感じ取っていた人物だったはずである。それゆえに、織田作之助が「王将」創作のきっかけとなった「可能性の文学」で書いたように、「世間づきあいも出来ず、他人の仲介がなくてはひとに会えず、住所を秘し、玄関の戸はあけたこと」のないという、世間の気を惹く伝説が築きあげられていった。北條は、これに目ざとく反応した。
阪田三吉が泉野利喜蔵らに連絡を取ろうとしたのは、せっぱつまったのちの、いわば最後に残された道だった。
阪田三吉は、1946(昭和21)年に没。
「王将」の初演は、その翌年の1947年。
もう一つのドラマ、「涙の王将」が完成するのは、そのまた50年後のことだった。
ふじたただし
*この原稿をまとめるに際して、舳松歴史資料館の方々に重要な示唆をいただいたことを記しておきたい。舳松歴史資料館では毎年「阪田三吉特別展」を開催しており、実像の阪田三吉、および舳松の文化に興味がある方は、同館に連絡することをお薦めする。
ー部落解放1997牢11月号(第429号)より抜粋ー
阪田三吉の生い立ちと関根金次郎との出会い
阪田三吉は1870(明治3)年に和泉国の舳松村(現堺市協和町)で誕生しました。村は、日明貿易などで栄えた堺に隣接し、世界一の規模の大山古墳があります。豊かな歴史の残る地ですが弊害も存在し、阪田が生れたあたりは周りからの人権侵害がひどく、不合理な扱いは同村内でもあたりまえでした。親は草履表づくりに携わっていたといわれ、生活は楽でなく阪田は就学できませんでした。手伝いをしながら将棋を見まねで覚え12、13三歳には当時の初段の実力をもち将棋の稼ぎで家計を助けました。阪田の将棋の強さにはこういう背景がありましたが、出自への偏見からこんな阪田を快く思わない人もありました。
一方、関根金次郎は1868(明治元)年、千葉県の農家で呱々の声をあげています。将棋好きな彼は先生との将棋を楽しみに小学校へ適う子でした。11歳で上京し伊藤宗印(当時八段)に三番の教えを受け、将棋会所生活を始めます。17歳のとき他流試合を思い立ち東京近郊を巡ります。1890(明治23)年に四段を免許、翌年伊藤の指示で初来阪、名人といわれた小林東白斎との角落ち対局で二番負け早々に四国へ旅立ちます。3年後の1894(明治27)年再び小林と対局、今度は角・香落ち二番とも関根が勝っています。
この年が阪田、関根初対局の年と考えられます。関根は大阪の後援者に「素人だが滅法力の強い男がおるからぜひ指してみるようにと堺の宿屋に連れられ」、阪田は「堺のある所で知らぬ人と指さされた。ただそこへ連れて行かれた」。結果は三番して阪田の二敗。阪田は「腕前の上で非常に違っていた」と懐古しています。16歳で父を亡くした阪田にとって将棋は一家八人の生活を支える大切な糧でした。勝負に負けて十日間寝込んだほどです。阪田は「なぜ関根さんが覆面をして(名乗らずに)やって来たかわからない」と語っています。風聞では「将棋に天狗の阪田の鼻を関根がへし折った」ということですがそれだけでしょうか。このあと二人は1918年まで合計32戦し、日本将棋界に大きな影響を与えていきます。
舳松歴史資料館発行「反骨の棋士 阪田三吉」ーその栄光と苦難の道ー より抜粋